「目に見えない世界」に対する懐疑的態度
心や魂の領域の仕事をしていると、時に「あやしい人なんじゃないか?」「変なことをやっているんじゃないか?」
と思われることも、陰で言われることもあります。
私もかつては非科学的なことや目に見えない世界に対しては懐疑的でしたから、
目に見えない世界に全く触れたことのない人がそう思うのは自然なことだと思います。
怪しげな新興宗教の事件もいくつかありましたし、
いかがわしいヒーラーや、現実逃避のふわふわしたお花畑スピ系の人も最近は多いですし、
精神世界のグルを次から次へ追っかけている人もいますから、
この世界全般に対して距離を置くのはふつうのことだと思います。
しかし、人間の深み、人生の奥深さに触れる体験を重ねるにつれて、
本当に大切なことは目に見えない世界にあることを理解していくのでした。
実際、いのちも心も魂も愛も形はありません。エネルギーであり、バイブレーションであり、意識です。
「大切なことは目に見えないんだよ」
と言った「星の王子さま」の話はほんとうだったことを童話の世界など読まなくなった大人になって理解したのです。
科学と宗教の結婚
表面意識(顕在意識)では、非科学的なこと、エビデンスのないものは信用しないとかつては思っていましたが、
私の心の深い部分に本当はずっとあったものがあります。
それは、この世界の実相を知りたい、真実を知りたい、真理を知りたいと思う気持ちでした。
いのちの中に深い問いを持ちながら生きてきたのに、
その問いを忘れて生きていた時期が長いことあって、
そうしたら、突然ハンマーで殴られるような出来事が起き軌道修正をさせられました。
それについてはこのブログに書きました。
ある日、ふとこんなひらめきが降りてきました。
科学と宗教は同じ宇宙を別々の窓から見ていただけなのではないかと。
科学と宗教をを止揚した第三の道とは何だろう?
そんな新しい問いも自分の中に生まれました。
科学というのは本来、宇宙の意志・知性・智慧の解読であり、
宗教というのは本来、宇宙的な愛の実践なのではないだろうか。
科学の発見は、この宇宙の永遠の物語=神話を繙く一つひとつの章であり、
宗教的、宇宙的感性(スピリチュアリティ)というのは、
その永遠の物語の底辺を流れる、生きとし生けるものたちへの”愛と祈り”なのではないだろうか。
「科学と宗教の結婚の時代がやってくる!」
そんな想いがある日突然溢れ出てきたのです。
実際、2500年前にお釈迦様が悟られた、色即是空、空即是色を量子物理学が証明し始めている時代に私たちは今生きているのですから。
互いの欠如を補完しあっている
科学と宗教は、同じ宇宙を違う窓から見ているのだという認識に立てば、
本来は互いの欠如の”補完装置””自己制御装置”として働くぺきものであって、
決して反目し合う別世界ではないのだと思う。
それは、理性と感性が有機的につながりあってこそ人間存在としてバランスが取れることとと同じ意味でもある。
世界、存在、生命現象はすべて、
相反する「対極の性質」をもつものが、
「相互補完的」に関わりあうことで成立しているのだから。
すべては「両義性」を持ち、「対」として存在している。
全ては「対で進化」していくようにできているのだ。
そうした「いのちの相補性」で成り立っているのがこの世界なのだ。
生命あるものは互いの欠如を満たしあい、助け合い、生かし合っている。
対極にあるものは、実はすべてひとつのものの、
コインの裏表、背中合わせのいのちの働きなのだ。
誕生と死もまた同じ生の二つの側面だ。
世界も、全く別々と思えるもの、
つまり見える宇宙と見えない宇宙という二つのものが、
実は一つに合わさっているということ。
つまり私たちは今こうして生きながら、
見える世界と見えない世界に同時存在しているということなのだ。
私たちが今、生きているこの三次元の世界は二項対立の相対的世界だ。
しかし、この二極のものが実はひとつのものであるという理解、目覚め。
二元論を止揚した第三の道を模索していくこと、
これまで対立してきたものの統合、融合がこれからの時代の大きな潮流になっていくのは間違いないことなのだろう。
人と親密にならなければ傷つけ合うこともないけれど
生と死、光と影、陰と陽、善と悪、幸と不幸、成功と失敗、
愛と憎しみ、喜びと悲しみ、男性原理、と女性原理。
片方だけでは存在できない。
片方の体験がなかったら、もう片方の体験は生まれない。
片方がなかったら、もう片方を真に味わうこと、真に理解することはできない。
片方を感じることなしに片方だけの働き、片方だけの体験では、世界の半分、人間の半分、人生の半分なのだ。
悪がなかったら、善とは何かはわからないわけだし、悲しみを知らずして、喜ぴを知ることはできない。
もし自分にエゴがなかったら、自己の内奥にある純粋無垢さ、
天真爛漫さ、愛、神性さに触れた時に、あれほどの感動を味わうことはできるだろうか。
病むことの苦しさを知らずして、健康であることの真の有り難さはわからないように、
孤独の痛みを知らずして、愛の至福も歓喜も味わうことはできない。
また、生まれなかったら死ぬこともない。
出逢わなかったら別れることはない。
挑戦しなければ失敗することもない。
人と親密にならなければ傷つけあうこともない。
信じなければ衷切られることもない。
表現しなければ批判されることもない。
人を愛さなかったら愛することの切なさも、愛を失うことの悲しみも味わうことはない。
その意欲だけは褒めてあげたい
何ひとつ無駄な体験なんてないのだとわかっても、
それでもやはり自分が最も望んでいるものの裏には
自分が最も体験したくない”リスク”が背中合わせに存在しているという冷厳な事実はあまりにも厳しいし、人生は過酷だと思う。
この星で生きているというのは、ただそれだけでものすごく大変なことじゃないか。
人は生きているだけでみんなすごいじゃないって思える。
この星に生まれたということがそもそも学ぶ意欲満々の魂たちなのだろう。
意識的であれ、無意識であれ。
この星は美しいが、人間にとっては最初から参加費無料の研修、修行道場に送り出されたようなものだ。
勇気ある魂のチャレンジャーたちなのだ。
私もまたエゴの作り出す苦を通して、エゴを超えた自己の本質に目覚めさせられる道に押し出さた。
愛でないものをたくさん経験することで、
愛とは何かを学べと尻を叩かれてきた。
どんだけ成長、進化したい魂なのだろう。
その意欲だけは褒めてあげたいと思うのだった。
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投稿者プロフィール
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心理カウンセラー、セラピスト、研修講師、作家、東海ホリスティック医学振興会顧問
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