自分の存在を全面的に肯定する「はい」

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どういう巡り合わせか、大学の教壇に立っている。

かつて、あらゆる授業で居眠りをしていた自分が、こんなところに立っていていいのだろうかという戸惑いはあるが、ひとたび学生たちと向かい合えば必ずさまざまな発見と感動があり、授業とはこんなに楽しいものかと、教える側になって初めて知った。

授業の初めに、出席を取っている。

「○○さん」
「はい」

単なる出欠の確認であるが、繰り返すうちに何か奥深いものを感ずるようになった。

教師が名前を呼び、学生が返事をする。

単純なその応答の中に、人間存在の本質が秘められているような気がする。

学生たちの返事は、それぞれ個性があって味わい深い。

大きな声、小さな声。自信に満ちた声。自信をもてない声。

たったひとことの「はい」でも、その声はその人の内面をよく表している。

本人は何気なく返事しているつもりでも、そのときの体調や精神状態で声は変わってくるし、何よりその人が本当に自分自身を受け入れているか否かで、返事の質は決定的に変わってくる。

名前を呼ぶということは、その人がそこに「存在」しているかどうかを問う、ということである。

 

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「あなたが、あなたとして、この世界に本当に存在していますか」

その問いに「はい」と返事をすることは、

「わたしは、わたしとして、たしかにこの世界に存在しています」

と宣言することである。

自分の存在を全面的に肯定するそのような「はい」を言うことは、

実はとても勇気のいることだけれど、

その「はい」を言えないからこそ、出席ひとつに返事をするのでも、どこか自信なげになってしまうのだと思う。

呼んでも返事のないこともある。

聞きそびれたのかともう一度呼んで見回すが、返事はない。

いたしかたなく出席簿には斜線を引くことになるが、

「欠席」という事実は、限りなく重い。

もちろん単なるずる休みかもしれないし、風邪をひいているのかもしれない。

だが、もしかするとこの授業をとるのをやめたのかもしれない。

学校自体をやめたのかもしれない。

何か事件に巻き込まれたのかもしれない。

すでに死亡しているなんてことだって、ありえなくはない。

返事がないということは、

相当戦慄すべき出来事なのであり、

返事があるということは、

相当感動すべき出来事なのである。

 

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わたしたちは、いつも呼ばれている。

何か、とても大きな存在から、とても大きな愛を込めて。

その大きな存在は、わたしたちに存在してほしいから私たちを生んだのだし、

わたしに答えてもらいたいから、わたしの名を呼ぶ。

「わたしはあなたを生んだ。存在の喜びを与えるために。あなたは、あなたを引き受け、世界にひとりだけのあなたとして存在してくれるか?」

その呼びかけに、きちんと「はい」と答えたい。

そのとき初めて、私はこの世界に存在するのであり、

その「はい」を言えるなら、それがどれほど苦渋に満ちた世界であっても、

私として生き抜くことができるのである。

そして、いつの日か、だれもがこの大きな存在から、最終的に名前を呼ばれる日がくる。

その日、すなわちこの世から天へ呼び出される日、

ぼくは自分の名を呼ぶその声に、

全面的な信頼を込めて、まっすぐに答えたい。

「はい」

『生きるためのひとこと』より。
(晴佐久昌英著/女子パウロ会)

 

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私には、その人から紡ぎ出される言葉がとても好きな作家がたくさんいる。

この本の著者、晴佐久昌英さんもそのお一人だ。

私が感じていながら言葉にできなかったものを、これ以上の表現はないだろうという文章に突然出会えると本当に嬉しくなる。

それは、その言葉に乗っかっている、その人の魂のバイブレーションが私にとってとても心地いいからなのだと思う。

それはまるで、深い深い海の底の静寂と豊穣、そして、あの青空の無限の広がりと解放感のようだ。

 

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日本語の返事の「はい」の語源は、「拝」「拝む」だそうだ。

英語の「YES」とは意味合いが違うのだ。

日本語の「はい」は、相手を尊重し、敬い、大切に思い、自己の存在の素直さの表現でもあるのだという。

晴作久さんのこの詩を読むとまさにそのことも表していることを感じる。

私は子供の頃から大の本好きだった。

長じて自分が物書きになるなんて想像もしていなかったが、

結果として好きこそものの上手なれの言葉通りになってしまった。

本の虫は年季が入っているので、その時々の自分に必要な本をピピっと感じるアンテナはかなり発達している。

晴佐久さんの本も見た瞬間、これだって思った。

常にアンテナを立てているので、いい本、面白い本、優れた作品にはよく出会う。

私が大好きな作家は、作品のよしあしだけでなく、

文体に香りがあり、音があり、

行間の沈黙や静寂が途方もなく豊かで広がりがある。

それは、おそらく、人間とこの世界を見る眼差しの鋭さと深さが生み出すものなのだろう。

文体とは、その人の魂の音色のように思う。

 

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文章も写真や絵や音楽も、

最初の数行を読んだ瞬間

写真や絵を見た瞬間

最初の音色やメロディを聴いた瞬間

「これは、あの人の作品では?」

とわかる人がいる。

自分のスタイルを持ったプロフェッショナルの存在の香りだ。

しかし、これは一朝一夕には生まれない。

その人の生き方そのものが、創造の歓びに満ちたプロセスを歩んでいるかが大きな鍵になるのだ。

生み出し続けているか

創り続けているか

書き続けているか

撮り続けているか

描き続けているか

弾き続けているか

歌い続けているか

やり続けているか

続けているという創造のプロセスそのものが、独自のリズムやハーモニーを奏で始めるのだと思う。

そして、創造や表現には、同時に捨てる作業も重要になってくる。

優れた作品というのは、クリエーターが捨て去ったもの、採用しなかったものの数に比例するのではないか。

同時に、その創造のプロセスで、

時に、挫折し

自己嫌悪におちいり

あきらめかけた日々と

それでもまたやり続けた日々の降り積もった時間が、

目には見えない存在の価値を生み出すのだと思う。

これは 、職業としてのクリエーターだけではなく、

自分の人生の創造主である私たち一人ひとりにも言えることだ。

まだしっかりとした形になってはいない内なる光が、この人生に生み出そうと思っているものと、

現実世界と自分自身の「壁や闇」にぶつかった日々の葛藤や苦悩、

それらすべてがその人の「生の足跡」だ。

私という存在の輪郭をだんだんと鮮明にしていくのは、

その「光と闇の生の足跡」なのだと思う。

最初から光っている人など稀だ。

たいがいはくすぶっているものだ。

しかし、くすぶったままではいられないと歩き出した道のりで人は、何かを掴んでいく。

自分の存在を全面的に肯定する「はい」と言えるのは、

その「道」そのものの声なのだと思う。

photo 7

photo 1 と photo 2 は鈴木 恭子(@kiyohk sduki) さんより。
http://kiyohksduki.com/

 


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心理カウンセラー、セラピスト、研修講師、作家、東海ホリスティック医学振興会顧問
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